寺本まことのブログ。

寺本まことのブログ。私は20代は人と会うよりも付き合うよりも会話するよりも読書する時間が多かったです。私は7歳頃からインターネットをしているけど(2024年5月6日現在現在私は29歳)アフィリエイトや投げ銭でお金を稼いだことはないです。ノンアフィ、金銭(現金)による収益無しでずっとインターネットをしてきました。それはこれからもずっとそうです。インターネット団体や公式応援団や政党からのスカウトがないかなんてずっと冗談半分で思い笑う日々ですが。私は今完全無所属のフリーの立場です。これからも応援よろしくです。

神様は。

神様は。
神様は無実の者をがんにはしない。大病をわずらわせたりもしない。がんになったら『自分のどこに問題がありがんになったんだろう?。心?ふるまい?』とすぐに内省し心や行いを正せた者からがんもその他の大病も治っていくものだ。人生で起こること、人生で自分に関係することは全て自分が原因である。非行をする子ども、子供を作らない我が子、原因はどこか?。それは子ども自身にもあるしその子どもの親にも原因が大いにある。がんになったりその他の大病をわずらわってから内省する人は多いものだ。『自分のどこが間違っていたのか?心?行い?』と。だが、内省し心や行いを変えていかなくてはならないと思うにはがんや大病や大きな不幸が必要となる。それらを経験しなければ人というものは心や行いを変えることもない。神様はそうした人生の大きな不幸を通じて(大きな不幸を与えた者に対して)心や行いを正すようにと教えているのである。人生が不幸な者ほど成長を諦め、他人を傷つけ自分の心や行いを正そうとも全く思わないのである。内省するほどの不幸が(偶然のように見える大きな不幸があった時など。気がついたら人生が不幸で救いようもなく誰も助けてくれないなどのことが)あったらその時にいたるまでに自分自身が改めるべき心や行いがあったがそれを見て見ぬふりをして生きてきたその結果であると重く受け止めなければならないのである。自分自身の心や行いに正すべきところがあっても見て見ぬふりをして生きてきた結果として神様がそのことを改めるようにしてきた結果として大きな不幸が与えられたと思うことが大事である。実子に子どもが生まれなくてねと言う高齢の親は、その高齢の親自身の行いや心にどこか間違いがありそうなっているのに当の高齢の親がそのことに気づかずそのことを正そうとはしなかった(自分自身の行いや心を正そうとはしなかった)結果として子どもが実子に生まれなかった(与えられなかった)という結果を神様から受け取っているのである。子どもが欲しければ養子をとるしかない。そういう状況に追い込まれるほど自分自身の(高齢の親の)心や行いに問題があったということだ。『どうしてかな?』と生きている間に体験した貧しさや大きな不幸に対して自分自身が死んだあと墓の中で言うレベルなら神様も助けてくれなくて当然である。心や行いの間違いがありそれを正そうとはしなかったのだから。墓じまいをする家庭は子どもや親の心や行いの間違いがありそれらが正されず時間が経過していった結果である。私もそういう心や行いを正そうとはしない人とよく出会うがそういう人はそれ相応に、それに見合うかのようにして不幸である。大きな不幸があっても大きな病気をわずらっても心や行いを正そうとはしない。だから誰も助けない。例え医者でも故意に間違った手術をして殺してしまう、そういうレベルである。神様は1から間違った心や行いを正していくための計画を考えそれを間違った心を持ったり間違った行いをし続けている者に与える。内省し立ち直らなければ、間違った心や行いを正さなければそれも学びの1つとして神様は大病も治さず不幸な人生を与え続ける。内省しないこと、内省して気づくこと、そのレベルでは神様としても悲しみでいっぱいなのだ。裁判で執行猶予の判決を得てようやく反省しますと言う。片腕を失いこれからは心や行いを正して優しく生きていこうと思う。人とはそういうものでもある。だがその前に小さな不幸があった時でも内省することは出来る。神様や運や宇宙や天や他人から見放される前に小さな不幸があった時にも『自分の行いや心のどこに問題があるんだろう?』と内省して生きていくこと。このことが人生を幸せに生きていくうえでも大事なことである。この世に偶然はないからである。