寺本まこと。無宗教のブログ。

寺本まことのブログ。私は20代は人と会うよりも付き合うよりも会話するよりも読書する時間が多かったです。私は7歳頃からインターネットをしているけど(2024年5月6日現在現在私は29歳)アフィリエイトや投げ銭でお金を稼いだことはないです。ノンアフィ、金銭(現金)による収益無しでずっとインターネットをしてきました。それはこれからもずっとそうです。インターネット団体や公式応援団や政党からのスカウトがないかなんてずっと冗談半分で思い笑う日々ですが。私は今完全無所属のフリーの立場です。私は無宗教。

平面か立体か。日本に29年間住み海外旅行経験無しという人生で気付いたこと。

平面か立体か。日本に29年間住み海外旅行経験無しという人生で気付いたこと。
私は10歳から14歳までは仏教に帰依したみたいな感じでした。
毎日仏壇を拝んでお墓参りも毎月して(2007年は一番お墓参りに行った年でした)。
プロ野球で言うならストレートとカーブしか球種がないという感じの絶望感もありました。
人間関係で大事なことは相手の気持ちを損なわないこと。悪口を言わないこと。
自分が悪さをした証拠を残さないことなどのことを覚えて人生で実践していました。
お寺と神社しか行くことがないという絶望の人生でした。
上手く立ち回っていたかのように見えるけどでも本当のところは奥行きがなかった。
平面しかなかった。この世は陰陽ですからこんなことを言っても仕方ないかもしれませんが
私は14歳の時に不登校になりましてね。ネット上で喧嘩したり悪口を言うこともたくさんあって(今思うと
それは陰陽を意識していたからですね。現実では善人を気取っていたので)人から嫌われたくないという
思いもあってそれで不登校になりました。仏教と神道しか知らなかったので平面的な考えが多くあったように思います。
例えば不登校になっても時間は取り戻せるから良いさと思ったらとことんそのように生きていってしまう。
でも冷静に考えてみてください。時間は取り戻せるわけはないのです。その時その時を一生懸命楽しく後悔ないように
生きるしかないのです。でも当時の私は平面的な考えから中学二年生の二学期から中学三年生時は
不登校でその間の通信簿の成績はオール0という結果が出ました。6年間通った学習塾の効果も空しく
結果は定時制高校に進学という結果になりました。仏教に帰依していた時代は人を傷つけても仏教の力が何とか
するさと思っていました。でも内心、私の心はぼろぼろで私の現実もぼろぼろでした。
私に存在価値はあるんだろうか?と思う日々でインターネット上で
他者を傷つけては自分の心を慰める日々でした。
高校生になりうつ病になり精神薬漬けという日々が始まりました(このことは2016年まで続きました)。
大怪我をしたり無理して人間関係を取り繕ったり。「俺は主役ではなくて付き人で良い」だなんて思って
生きていた時もありました。今思うと平面的な思いや考えで生きている人がアジアには多いと思う。
日本には多くのニートの人がいる。そのニートの人達は平面的に物事や世界を見ている。
仏教に帰依すれば(帰依=全てを委ねること。行動の結果の一切も何とかしてくれると依存すること)
全て解決するさというように。「服装がボロボロで不潔。でも仏教に帰依しているから何とかなるさ」と
思っても何とかならないものです(特に異性との関わりの中においては)。
平面的な考え、平面的な思いとは言うなれば非現実的な考えや思いという意味です。
「時間は巻き戻されるから今日という日を無駄にしても良いさ」という考えや思いは
非常に平面的な考えや思いです。でもそうした平面的な考えや思いはアジアという国を
平和的に発展させてきたともいえます。ブログやsnsをやらずにスマホゲームに没頭する若者も
ある意味で平面的な考えや思いのもとにそうしているのだと思います。
平面的な考えや思いのキーワードは、『奥行きがない。独特。不思議な。閉鎖的。内向的』です。
欧米では囲碁や将棋などは流行していません。ここでは仏教と対立する宗教としてキリスト教
あげさせていただきます。キリスト教は立体的な思いや考えを私にもたらしました。
立体的な考えや思いのキーワードは『奥行きがある。学習する。自分は自分。現実的で実用的』です。
欧米では人に恵まれることが多い。欧米に住む人達は立体的な考えや思いを持っている(キリスト教徒が多いので)。
私はキリスト教に出合い立体的な考えや思い方に出合い精神薬をやめましたし、精神科に通うこともやめました。
誰かに迎合して生きていくこともなくなりました。自分の内面的な理想を現実にあらわしていくという体験は
立体的な考えや思い方に出合わなかったら無かったことでしょう。
欧米は非常に精神的な技術が国会に導入されています。日本の国会にはそうした技術はありません。
幼いころからスポーツをやらせる家庭があるけれどそれは幼いころからスポーツをやることで立体的な考えや思い方を
身につけさせる狙いがあるのだと思います。私は29歳の現在、友達も男友達一人しかいません。でも毎日自分なりに
のんびりと過ごしていて楽しいです(でもブログやsnsで自分の才能を発揮するということもしているので平面的な
考えや思い方のみで日々を過ごしているというわけではありません)。欧米ではちょっとしたことで裁判になることが
多いそうです。イエスキリストは優しい性格です。支配者に支配されていた人々を知恵の力で解放していきました。
これが仏教の指導者であれば武力をもって打倒せよと人々に対して呼びかけるはずです。
神道の指導者も人々に対してそのように呼びかけるはずです。平面的な考えや思いは時として強い力を生み出します。
でもそれ以上の発展はないと思います。イエスキリストが知恵の力で人々を救済しました。このように立体的な考えや立体的な思い方
(あるいは思いには)には発展性があります。仏教と神道しか知らなかった(平面的な考えや思い方しか知らなかった)あの頃の私を思うと
かわいそうに思う。病気も事故もたくさんあった。でもアジアに住む多くの人々は私が10代だったあの頃と同じで平面的な
考えや思い方しか知らない。古い木造の空き家とかを見ると「ここに住んでいた人もあれこれと考えたり思ったりしていたけど
どれも平面的な考えや思い方だったのでこの家は空き家なのだ」と私は思います。政治に対して傍観していようと思うのが
アジアに住む人々。政治に対して参加していこうと思うのが欧米に住む人々。欧米のアニメの主人公などは有名人が多い。
でもアジアのアニメの主人公は身分が一般人ということが多い。森に住む妖精が平面的な考えや思いを持つならば
アラビアンナイトジーニーは立体的な考えや思いを持つ。ここには大きな違いがあるのである。
日本は第二次世界大戦末期に呪術に頼った。もしアメリカがその頃の日本と同じ立場だったらば良い条件のもと
降伏していたはずである。竹やり特攻やゲリラ戦でアメリカに勝つことは出来ない。
銃火器の前に惨殺されるのみである。空襲で多くの人々も死んでいく中で早期の降伏を決断できなかった。
それは平面的な考えや思いをもとに奇跡をただ祈り信じていたのみだったからである。
平面的な考えや思いと立体的な考えや思いの融合。それが今この世界に生きている人々に求められることである。