もし一億回同じことを体験したら。願望実現に大切なことについて。
これからお話することは私がたくさんのスピリチュアルの本を読んだ経験から気付いた願望実現に大切なことについてです。
ヤマトミコウジさんは『あってもなくてもどちらでも幸せと思うことが自分の欲しいものを手に入れる方法』と本の中で言っています。奥平亜美衣さんは本の中で『自分の今の状態と同じものを近未来で引きよせるわけだから願いを叶える前から幸せに生きていることが大事。願いって何だっけと思えるぐらい幸せに過ごすことが大事。願いってなんだっけと思えたらそれは願いが叶う合図』と本の中でおっしゃっています。五億年ボタンという作品があります。五億年ボタンというボタンを押すと五億年分の意識時間を過ごしてしまうという内容の作品です。五億年も何もない空間で人は過ごすとやがて五億年という時を過ごす中で人は生きることに固執しなくなります。あなたがもし一億回も自分の好きなことをしたとしたら一億回を過ぎたあたりで『自分の好きなことを一億回した。だけどもうこの自分の好きなことはあってもなくても良いや。好きなことが出来ても出来なくても良いや』と思うのが普通です。人がコツコツと願いを叶えたりコツコツと物事を積み重ねるその理由は『悟り』に到達するためです。このことはヤマトミコウジさんが言うあってもなくてもという言葉の意味であると私は思います。ヤマトミコウジさんは軽く願うことが願い事を叶えるコツであるとも本の中でおっしゃっています。その意味も『悟ることが大事』という意味であると思われます。お釈迦様が一億回修行して気づくことがあるとしたら『修業を一億回する前から、つまり最初からこの世に産まれた時から既に自分は完璧な存在で願いを叶える力があったんだ』ということに気付くかと思います。例えお釈迦さまではない人が一億回願いを叶えても『この世に生まれた時から既に自分は完璧な存在で願いを叶える力があったんだ』ということにやはり気付きます。つまり願いを叶えていくうえで大事なことは『この世に生まれた時から既に自分は完璧な存在なんだ。自分には願い事を叶える力が生まれた時からあるんだ。だから願い事を叶えても叶えなくても幸せなんだ』ということに気付くことです。
人間の人生は最高でも百年しかありません。ゆえにそこに、歪みが生じます。一年に一回しか出来ないことがあるならば百年で百回しか出来ません。ゆえに人は一年で一回しか出来ないことを一年で百回出来るように願うわけです。しかし、そこに執着心が生じます。重たく真剣に願ってしまうのです。そうすると願いは叶いません。ヤマトミコウジさんも本の中で重たく真剣に願うと願いは叶わないがニタニタとして軽く願えば願いは叶うと本の中で言っています。『願いが叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』。この心境、境地には一億回願い事を叶えたら、たどり着きます。ですが一億回実際に願いを叶えなくても良いのです。『もう既に私は一億回願いを叶えている。だから願いが叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』と思い込み続けることが大事なのです。『もう既に私は一億回願いを叶えている。だから願いが叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』と思い込み続けていると
本当にたくさん願い事が叶っていきます。『もう既に私は一億回願いを叶えている。だから願いが叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』を簡略化させた言葉は『願い事が叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』です。自分の好きなことでも一億回も体験したら執着心も無くなる。執着心はなくなったが体験することを諦めたわけではない。一億回も体験したら一億一回目も体験出来ることは確実なわけだから(呼吸するかどうかという点で呼吸をするのと同じぐらい確実なわけだから)。ゆえに『願い事が叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』と思う。つまり『願い事が叶っても叶わなくてもどちらでも幸せ』と思い込むことが願い事を叶える一番の方法であるということです。